お節料理
お節とは御節供のこと
「お節(おせち)」とは節日に用いられる料理のことで、「御節供」の略です。
節日のうち特に正月の食事のことをさします。 年神を迎える正月は家族が一同に会し、供物の一部を分かち食する「直会」を行い新年を祝いました。本来の意味からすると雑煮や屠蘇もお節料理の一種と考えられます。
現在、一般的にお節料理と言えば重箱に盛られた重詰めの料理のことをいいます。
お節料理は、それぞれにめでたいいわれがあり、地域によっても様々です。
・一般的な重詰め
一の重…口取り
きんとん、かまぼこ、伊達巻き
二の重…焼き物
小鯛の塩焼き、ぶりの照焼き、鶏肉の松風焼
三の重…煮物類
八つ頭、牛蒡、人参などの煮染め、昆布巻
与(四)の重…酢の物
紅白なます、菊花かぶ
祝い肴(三つ肴)…一の重に詰めるか、別の器に盛る
数の子、田作り、黒豆
喰積の風習
祝い肴は明治初期まで「喰積」と呼ばれていました。当時は現在の煮物類をおせちと呼び、祝い肴を喰積(くいつみ)と呼んで重詰めにしていた様です。
江戸幕末の頃、江戸・京都・大坂では正月に蓬莱を飾り、江戸においてはこれを喰積と呼んでいました。三方の中央に松・竹・梅を置き、まわりに白米を敷き詰めます。その上に橙一つ、柑橘類、搗栗、ほんだわら、串柿、昆布、伊勢海老などを積み、さらに裏白、ゆずり葉などを置いたもので、京都と大坂では床の間に飾り、江戸では年賀の客にすすめたそうです。
重箱はいつ頃から?
天明(1781-1789)の頃は食べられていた喰積も寛政(1789-1801)以降は形式的な飾りとなっていき、食する祝い肴を重詰めするようになります。祝い肴の重詰めは、文化年間の文献に見られ、当時の江戸では数の子、田作り、たたき牛蒡、煮豆の重詰めが通例となっていた様です。
明治になると喰積そのものは廃れて祝い肴の重箱に喰積の名前だけが残り、その後祝い肴に他の品々が加わって現在見られる様は多彩な重詰めが作られるようになったといわれています。
→祝いの食品のいわれについて(別ウィンドウが開きます)
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