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しつらい色々陰陽五行
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陰陽五行
 

陰陽五行思想の渡来

陰陽五行思想が日本に渡来したのは文字移入とほぼ同じ時期ではないかといわれています。
暦本が初めて到来したのは欽明天皇14年の紀元553年とされています。推古天皇10年の602年には百済僧観勒により暦本・天文地理の書・遁甲方術書がもたらされました。陰陽五行思想は天地開闢から宇宙森羅万象の在り方におよび、中国古代天文学とも密接に関わりあっていて非常に複雑で難解なものでした。

日本へ導入された陰陽五行説は、当初それを理解し実践できる人材がほとんどいなかったとみられ、その歩みは七世紀初頭まではやや緩慢でしたが、640年頃、南淵請安、高玄理らの学僧や留学生の帰朝後、急速に浸透するようになります。こと633年、百済滅亡の結果、そこから多くの百済亡命者を迎えた天智天皇の時代にその様相が一変し、さらに次の天武天皇の時代には陰陽五行思想の盛行はその頂点に達したとされています。
天武天皇は天文遁甲に通じ、壬申の乱(672年)後、陰陽寮を設け、675年には占星を造営しました。大宝令によれば、陰陽寮の組織は、長官(頭)・副長官(助)をはじめとして、陰陽師・陰陽博士以下各職員からなり、その任務は占筮・占星・漏刻などの管掌にあたりました。

平安時代になると、賀茂保憲・安倍晴明が陰陽師の大家として出現し、中世以降はことに晴明の後裔、土御門家が代々世襲して長に任ぜられ、陰陽頭・陰陽博士などをほぼ独占した状態でした。江戸の徳川幕府時代になるとその権限はさらに強化され、諸国の陰陽師を統括するまでに至りました。
徳川家康は、陰陽五行の奥義を体得して天源術を創始した天海僧正を重く用いました。天海僧正は家康没後も秀忠・家光と三代にわたって仕えたことから、その影響は幕府の諸政策をはじめ社会各層にもひろく及んだとされています。

陰陽五行、及びその実践としての陰陽道は日本へ渡来して以来、 国家組織の中に組み込まれ、朝廷や幕府を中心に祭事、政、年中行事、医学、占術、農行などの基本原理となり、時に軍事に用いられるなど広範囲に実践応用されてきました。
しかし、明治維新を機に西洋の波におされ陰陽五行は迷信として排除され、国の中枢からその姿を消してしまいました。
それでも今日に至るまでその伝統を伝える諸家もなお多く存続しています。


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